2009年7月23日 (木)

ネルルちゃん

この冬、父が入院したばかりのころ、母が淋しいのではないか、少しでも気がまぎれるかなと、ネルルちゃんというおしゃべり人形(トミー製)を、姉と相談して買ってみました。
人形とわかっていても、その愛くるしい顔立ちと、抱き上げた時の重量感。
頭を撫ぜたり、手を握ったり、話しかけたりすると、可愛い声でいろんな会話を発し、時には歌まで歌ってくれます。
設定をしておくと、決まった時間に「おはよう」と目を開け、
「おやすみなさい」と目を閉じる。
「ようできとるな~」と言いながらも、母は笑顔で話しかけ、抱きかかえ、寝る時は添い寝をしているそうです。
母でなくとも、可愛い声で「とんとんして、きもちいい~」なんて言われると、思わずとんとんしてあげたくなるのです。
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父が亡くなった後、どんなにか母の事を心配しました。
とても仲の良い夫婦だったので、どちらが先に逝っても、残されたほうは、落ち込んでしまうとばかり思っていました。
毎日のように病院に面会に行き、だんだん弱っていく父を見つめていたので、少しづつ覚悟ができたのか、父が病気の苦しみから解放されて、母もある意味安堵したのか、意外なほどに母は落ち着いていてくれたのです。

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義母は、夫の蔵書からこんな本を持ってくるように要望します。
読むわけではないけど、こんな本を読む人でありたいのでは?






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母は、こんな唱歌の本をいつも枕元に置いています。
女学校の時コーラス部だったんやと自慢そうに次々と歌ってくれます。



義母はたびたび転倒するので、介助を必要としているが、人を呼ばすに動こうとするので、ベッドにセンサーが付いていて、立ち上がるとヘルパーさんが駆けつけるようになっています。
もう何度もしりもちをついて、圧迫骨折をくりかえしては、辛い思いをしているのです。
それでも義母は、動くたびに人を呼ぶのは遠慮があるようで、センサーが感知しないように上手く動いて、ヘルパーさんを困らせています。

母のほうはといえば、ヘルパーさんの言われたことを忠実に守り、ただただ「ありがとう」「すみません」を繰り返し、おだやかに健康に暮らす日々。

簡単に言うならば、義母は賢いおばあちゃんで、
母は、かわいいおばあちゃんと表現されるのかな。

私はどっちのおばあちゃんになるのかな?なりたいかな?なれるのか?
可愛いおばあちゃんは、皆に好かれて得かもしれない。
どんなに年とっても、自分の意思を優先に行動したいと今は思うけど、人の世話になるということは、どこかで腹をくくらなければならないのでしょう。
世話にならない人生を送られれば、それにこしたことはないのだけれど。

もうすぐとうとう60歳。
ふとそんなことを考えるようになりました。

0906190018 ホームへは花好きな母のため、いつも二人それぞれ同じ花を持参します。
きょうはユリを買ったら、いつものお花屋さんは、バラをちゃんと2本おまけしてくださいました。
毎日水を替え、水切りをする母の花も、1週間が限界。
花が枯れてしまうと、長い間私が来なかったように思うらしいので、
「花の枯れないうちに訪問しよう」が、最近の私の目標です。

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2009年4月 6日 (月)

桜の花に寄せて

山陰の実家のすぐ近くには古い川が流れ、見事な桜土手がありました。
「車椅子を借りて、桜を見に行こうか?」
たまに帰省したおりに誘ってみても、父は首を横に振ります。
「花びらが庭に舞い落ちて来るから、桜が満開なのがわかる」
そう父が言うので、小さな小さな坪庭に目をやると、淡い淡いうす桃色の桜の花びらが金魚鉢の水面や、コケの上にちらほら。

父は、人の手を借りてまで歩行を助けてもらったり、何より近所の人の同情をかったりするのが嫌らしく、いくら誘っても、昔の男の人らしい頑固さで、外出を拒んでいました。
はなやかな桜を愛でる人々の中に入っていく気にならない心境は、足が不自由になった父の身にならないとわからないのだろうなと、満開の桜の下に連れて行ってやりたい気持ちも、私達きょうだいは、十数年あきらめていたのです。

子供達から遠い実家で、老いた両親が二人助け合って暮らすのは限界だと、両親を諭し、末娘の私の近くのここ湖西に越してきたのは6年前でした。
父は87歳になってしまっていました。
安心したのか、自然豊かなこの湖西の地に来たことが幸いしたのか、強引に介護保険をフル活用させて大勢の方々のお世話になりながら、二人とも見違えるほど元気になりました。

マンションの部屋の父のベッドからは、比良の山並みと琵琶湖が見えて、窓の下には大きな桜の木があって、巡って春が来ると、眼下の桜はそれはそれは美しく、父のうれしそうな顔を見たとき、
「ああ、おもいきって引っ越してきてよかったな~」と母と笑顔を交わしたものでした。

きらめく琵琶湖の朝陽、新緑の湖畔、虹のかかる秋雨の山並み、錦織り成す晩秋、山陰のように雪に包まれる白い冬。
晩年を、二人仲良く助け合いながら、移りゆく四季の中で過ごすことができました。
そんな環境に老いた両親を置いてやれた、ただそれだけが、私にできた親孝行だったように思います。

それでも、二人とも寄る年波には勝てず、だんだん弱り、ホームへ移って2年。
年末から体調が懸念されていた父は、お正月が明けて呼吸困難になり、病院に運ばれてちょうど一ヶ月で、穏やかに息を引きとりました。。

時間の許す限り、母を病院に連れて行って面会させてやりました。
とても仲の良い夫婦で、93歳と、90歳のしわだらけの手と手を握り合い、呼びかける母の声を聞くと、父はとても穏やかな表情になるのです。
兄嫁が思わず、「こんな夫婦にならなあかんな~」と言いました。
「ほんまやな~」 

まだ雪のちらつく頃、花屋さんで、冬に咲く”啓翁桜”の一枝を見つけ、病院のベットの父に見せてやると、かすかに開いた瞼のむこうにキラッと瞳が輝いて、軽くうなずいてくれました。
最後の桜だったよね。

先月の末、四十九日の法要をすませました。
寒さが長引いた今年の春は、この日に合わせた様にやっとソメイヨシノが数輪咲きました。

ここ湖西は、今やっと、五分咲きの桜です。
おじいちゃん、今年は空の上から見てるかな~?

親を亡くすというやるせない喪失感を、初めて味わった冬も終わりました。

今朝の里山の桜です。
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2008年7月19日 (土)

忙しい1週間でした

酷暑までのもうしばらくは、カラフルな庭の片隅。
挿し芽なので、やっと今満開です。
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忙しい1週間でした。
義母がまた転んだとホームより連絡があり、いつもの腰椎圧迫骨折とのこと。
ほぼ、1月に一度の割で転んじゃいます。
本人も充分気をつけていると言うのですが、意に反して足腰は、思うようには動かないのでしょう。
ただベットに横になり、食堂やシャワーに移動するときだけ、車椅子の介助が必要です。
幸い動かさなければ痛みはないので、あまり苦にならないようで、とても元気で安心しました。
「こう何度も転ぶと、もう慣れたわ」と、義母はのんきなことを言って笑わせてくれます。

笑わせるといえば、もうひとつ。
夫が「おふくろより、おじいさん(私の父)の方こそ、あんなに痛そうなのは見ていて辛すぎる。ペインクリニックで相談したらどうや」と心配します。
娘が看護師をしているので、お休みの日に義母の見舞いも兼ねて、一緒に父の様子を看てもらいました。
「おじいちゃん、あんまり痛いんなら、専門の病院に行こうか?」と尋ねると、
「どこがそんなに痛いんや? 少しくらい痛いけど、おおげさに言っとるんだけや」

「??? え~っ そうかいな」
娘と、主任の介護師さんと顔を見合わせて、思わず吹きだしました。

義母も父も、そうとう痛みはあるのだと思います。
私たちに心配をかけないようにそう言っているのか、本当にさほどの痛みではないのかは、わかりません。
ただひとり実母だけは、持参した桃を美味しい美味しいとほうばって、元気です。

私も、人間ドッグの要精密検査にひっかかって、成人病センターへ通いました。
これも娘が一緒にきてくれて、とても心丈夫でした。
幸い、あまり心配する結果じゃなかったので、一安心。

娘を京都まで送って行ったのは、祇園祭の最終の夜でした。
夜でもいつも人通りの多い八坂界隈も、祭りのあとの寂しさを感じる生ぬるい風でした。

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もうそろそろ梅雨明け。
夏の青い花は、 本番を迎えます。








今年もいちだんと大きくなったブルーウィング
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0807180018 玄関前にあるモミの木と
デュランタ宝塚
このモミは、子供たちが小さい頃、クリスマスツリーに使っていた鉢植えを地に下ろして20年経ったものです。
大きくなりすぎて困るけど、なんだか抜けない思い出の多い木です。

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2008年7月 9日 (水)

終末期医療の話

TVで、愛知県の国立長寿医療センター病院が、「終末期をどう生きるか」という課題を、具体的に本人の意思に従い文書化しているというレポートをしていた。

いままで、ぎりぎりの終末期医療を、家族と医師で話し合われるしかなかった治療手段について、本人がしっかりと判断の出来るうちに、自分の意思を文書化して残そうというもの。

例えば (あくまでも、ぎりぎりの終末期の場合)
     心臓マッサージ
     人工呼吸器
     胃への直接栄養補給
     点滴による水分補給

等等についての医療行為を行なうかどうか、その内容を詳しく説明を聞き、ソーシャルワーカーとともに、自分の意思を書面に残す。
本人の判断能力が危うい場合は書面を受け取らない。
1年ごとに、再確認をして判断を見直す。
など、考慮されている。

この問題の難しさは、個々に状況も価値判断も違うし、なにより、触れたくないタブーの領域に寄り添った問題であることで、なかなか前面の討論の場に出てこない。
公的に制度化するには、まだまだ高いハードルがあるのだろう。     

家族と、本人の想いとに隔たりがあることももちろん承知で、私ならこの制度を利用したいと思った。

そう思うのは、私も身体に不安を覚える年になったからか?

最近父は、身体の筋肉の硬直が進み、少し体を動かすのも辛そうに「痛い、痛い」と繰り返し、見ているこちらが辛くなる。
これからもっともっと身体が衰えていくに従って、どんな痛みや苦しみを伴なはなければ、命を全うできないのか?

長い長い、痛い、苦しい、辛い終末期医療は、堪忍してやってほしい。

避けたいけど、避けられないお話です。


青い花々(133)
ニーレンベルギア
春に垂れ下がるタイプを3株買って、大きな平鉢に植えました。
まだあまり垂れ下がっていませんが、薄い、やさしい花びらは涼しさを誘います。
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青い花々(134)

パンダイワギリソウ
ストレプトカーパスによく似た花です。
「雲南省の山野草だから丈夫だよ」と山野草やさん。
葉挿しができそうに思えますが?
それにしても、なぜこの名?

 

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2008年4月 2日 (水)

老いを見つめて⑤(ありがとう)

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   ビオラのハンギング  
   
やっと花がたくさん咲き始めました。
今年は、寒くて遅い遅い。



義母はついに、うつ症状がほとんど見えなくなり、手すりをもってゆっくり歩いたり、会話も普通に戻ってきた。
抗うつ剤は止めるタイミングが難しいのでまだ続けている。
時折???と思う軽い認知症状はあったが、、私の母よりはまだ軽い。
時々、胸に両手を当てて、「なんだかしんどい。不安でしかたない」と言ったが、ある日それは空腹の訴えだと気づいた。少し食べ物を口にすると、ケロッと治まる。
相変わらず、外出は嫌がり、あれほど好きだった大相撲も見ない静かな環境を望んだが、一人で留守番することもできるようになり、私も外出がしやすくなった。

そして、「ホームへ行きたいな~」が始まった。
こんどは、誰も何の不安もなかった。

両親の時からもう5年間、お世話になっているかかりつけの医院の看護婦さんには、いつも励まされ、どんな時間も電話で相談にのっていただいた。
的確な方法を提案していただくと、安心できたし、希望も見い出せた。
ケアマネージャーは、細かな手続きを快く引き受け、最後の最後まで、アドバイスをもらい、頼りにしていた。
義母のホームへの入所に最初は反対していた義姉達も、最後は理解を示した。
先日面会に行き、、義母がとても元気になっていて、笑顔を見て安心したと喜んでくれた。
夫は、いつも100%私をかばい、出来る限り私を助け、事務的な諸処の手続きに仕事の合間をぬって奔走してくれた。
そして、私に「あんたをいつまでも縛るわけにはいかん」と言ってくれた義母。

みんなありがとう。

  静かなお茶の時間                                                                           
0501070008 おかげで、義母は最初の望みどおり、私の両親のひとつ置いてとなりの部屋に表札を掛けてもらい、「私の家や。終の棲家や」とうれしそうに暮らし始めました。
ホームには、自分と同じように痛みを抱えた人や、自分のほうが励まし、手助けしてあげられる人などいろいろで、仲間がいることの安心感は大きいようです。
第2ステージは始まったばかり。
これから、この母達にどんなことが待ち受けているのかわかりません。
子としては、穏やかに穏やかにと願うばかりです。
                                        
二人の母に「また来るね」と手を振りながら、ふと気づいた。
義母は、私の母がいなければホームへは入所しなかったでしょう。
私は、このまま義母との暮らしが続けば、不自由な暮らしに不満や疲れがたまり、どうなっていったでしょう?
いつも優しい笑顔の母が、義母と私を助けてくれた。
90歳の母は、こんな年齢になった私を、まだ守り、助けてくれたのです。
「ありがとう。おかあちゃん」
涙がぽろぽろこぼれた、帰り道でした。                 

短い間だったけど、老いをそばで見つめ、自分の老いや死について考える日々でした。
老いに関する本、病に関する本もたくさん読めました。
夫はよく言います。
「人間、死ねなかったら辛いだろうな。死ねるからこそ、今を一生懸命生きられる」
若いときはよくわからなかったけど、今は、心からそう思えます。
明日かもしれない死ねる日まで、元気に、穏やかに暮らせたらどんなにいいでしょう。
老いも、死もいつか誰にもやってきます。
死は生の延長上のとなりにあると、自然に受け止められる自分になりたいと思ったのでした。

文で伝えることは、私にはとても難しいことでした。
それでも、いつか、何か、ヒントになればと書かずにいられませんでした。
ちゃんと伝わらなかったらごめんなさい。 





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2008年4月 1日 (火)

老いをみつめて④(回復)

睡眠剤の力をまだ借りなければ眠れなかったが、睡眠時間は少しずつ増えて、夜だけはぐっすり眠れるようになった。
抗うつ剤は、1ヶ月以上経たないと効果が見えないと言われていた。
心の病はまず眠れるようになることが大切だ。眠ることで、ゆっくり脳を休める。
眠れるようになったことで、私は希望を見出していたが、別の症状が現れ始めた。

体が少し動けるようになって、自分で動き始めると、転んで筋肉を痛め、また動けなくなった。
トイレ、食事の補助はもちろん、布団を掛けて、布団をめくって、水を取って、手を握って、などいろんな理由で、私を呼ぶ。
なんの理由もないときもあり、その回数は頻繁になって、ひどいときは10分毎になった。
夫がいる時は、夫も呼ばれる。
夫はとうとう音をあげ、休日は里山へ逃げた(コラコラ!)
数回に一回は、呼ばれても無視したり、病なのにと解りつつ義母を叱ったりして、私自身落ち込んだりもした。

デイケアやショートステイに預けられたら、少し私も休めるが、うつ症状があるので、人の中に急に連れ出すのは無理だった。
それでも少しづつ、また歩けるようになったり、昼間も少し眠るようになったり、以前からおやつを一切食べなかったのに美味しいと言って食べ始めたりと、前に進んでいた。

うつ症状に隠れていた認知症が見えてきたのは、抗うつ剤を飲み始めてからやはり一ヶ月半。
そのころになると、はっきりと正常な時間と、うつろな目をした別人のような時間が表れるようになった。
二重人格のように見えた。
正常な時は以前のように穏やかでやさしく、別人の時は何を言っても無駄で、うろうろと部屋を行ったり来たり落ち着かない。
トイレに行ったあと、またすぐ行ったり、食事の2時間後くらいに「きょうはまだ食べてないな~」と言ったり、時間に関する記憶が混乱し始めた。
その反面、穏やかな時間は日ごとに増えていった。

夜寝かせて布団を掛けると、「ありがとう」と言ってくれるようになって、もういいんじゃないかと、睡眠剤を半分に減らし、とうとう止めさせることに成功。
知らぬ間に夜は勝手に眠れるようになった。

食欲が増えたり、眠れるようになったり、寒がらないようになったり、体が自分で動かせるようになったりするたびに、
私が「おばあちゃん、こんなに良くなったな~」と言うと、
いつも「そうか?」と沈んだ声で答えていた。
私は、「おばあちゃん、”そうだな~”って言わなあかんよ」

ある日、答えて義母は、
   「そうだ、そうだ ♪
     そうだむらの そんちょうさんが♪
          ソーダのんで しんだそうだ♪」 
と歌った。

二人で顔を見合わせて、久しぶり笑った。
元気な頃の明るい義母の笑顔があった。


参考                               

 そうだ村の村長さん                     クリスマスローズ(フェチダス)                           
         阪田 寛夫                          
0501150005_2 そうだむらの そんちょうさんが
ソーダのんで しんだそうだと
みんながいうのはウッソーだって
そんちょうさんが のんだソーダは
クリームソーダのソーダだそうだ
おかわり十かいしたそうだ
なかでおよげばなおうまそうだ
クリームソーダのプールはどうだと
みんなとそうだんはじめたそうだ
そうだむらではおおそうどう
プールはつめたい ぶっそうだ
ふろにかぎるときまったそうだ
そうだよタンサンクリームおんせん
あったかそうだ あまそうだ
おとなもこどもも くうそうだけで
とろけるゆめみてねたそうだ

 「しゃべる詩あそぶ詩きこえる詩」より 

   この記事は続くので、コメント欄は最終回に設けます。

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2008年3月31日 (月)

老いを見つめて③(命の水)

0501160005 青い花々(116)
イオノプシデュウム

毎年こぼれ種で、庭のあちこちにたくさん咲いています。
小さくて、なんともかわいい花です。




介護師さんとの話の中で、すごいヒントをもらった。

ひとつは、
ホームの入居者は、1日の水分を1000cc摂取するように、きちんと一人づつチェックしていること。

水分の摂取量が少ないと、熱がでることがあるし、最近では認知症の原因になることもあると言われているらしい。
とくに寒い時期、高齢者はたくさん水分をとらない。
いつも、お茶と水はベッドのそばに置いていたが、飲む量は義母本人に任せていた。
食事の水分(お味噌汁、果物、牛乳など)も含めて、1日1000cc、ちゃんと量ることにした。

もうひとつは、
ウォシュレットに頼らず、なるべく自力で排便させること

義母は、ベットのそばのポータブルトイレで用をたすようにになってから、排便ができず、夫が水洗トイレまで抱いて連れて行った。
聞けば、もう何年も、便はウォシュレットの高温の湯を当てて、出させるくせがついていて、自力では出せないと言う。
それも、たいてい親指の先ほどの量しか出なかったらしい。 え~、そりゃあかんわ。
自力で排便出来るようになるまで、下剤を服用することにした。

この2つをはじめてから3日目、宿便と思われる大量の排便があった。
嫌がる入浴をさせて、タップリお茶を飲ませて、サテサテその晩、うちへ来てからはじめて朝までぐっすり眠った。
それどころか、朝食をとるとまた眠り、昼までスヤスヤ。
どうかなってしまったかと、何度も何度も息をしているか覗いてみた。

義母はこの日以来、すっかり薄着になり、食欲が増していった。
すっかり空っぽになったお腹から水分が吸収され、乾ききった体に満ち満ちていったに違いない。
吸収された水分は、体温に温められ、体を温める。
青白い頬が、薄くピンク色に染まってきた。

それまで、義母は異常な寒がりだった。
夫が「雪だるまみたいやな」というくらい、上下5枚ずつに、靴下は3枚、そのうえ、昼間でも布団を掛けて横になる。
それでも腰周りが寒いからと腰に毛布を巻き、足元には電気毛布。
ずっとそんな生活をしていたと言うし、痩せた人なので、そんな体質なのかな?と思っていた。
この世代の人は、節約のせいか、エコのせいか、あまり暖房をしない。
加齢とともに体の動きが緩慢になり、厚着をして、昼間から布団にもぐる。
体は、温めすぎて発汗するが、そんな意識もなく、水分は取らない。
寒さと体の不自由なせいで、お風呂へ入るのを嫌がり、血行を促すチャンスがない。
そこへ便秘が重なり、悪循環は体力を奪っていったと思える。
水こそが、命の源だった。

暖かい部屋、朝晩の着替え、入浴、歩行練習などなど。
義母自身に任せていた生活習慣を、私が規則正しく整えていった。
素直に私の指示に従ってくれた。

体は見違えるほど健康になったが、心のほうは?
次の難問が待つ。

 この記事は続くので、コメント欄は最終回に設けます。

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2008年3月30日 (日)

老いを見つめて②(診断)

立ちどまり しゃがんでみよう たんぽぽが 世界を見ている 高さになって                          
                      俵 万智 「花束のように抱かれてみたく」より

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大雪の日だったが、この日を逃すとまた長いこと予約が取れないので、介護タクシーをようやくケアマネージャーに見つけてもらって、診察に出かけた。
老人精神科外来は、待ち時間を入れるとほぼ1日仕事で、時間を充分とった問診、テスト、MR検査などなど。
生い立ちから始まるいろいろな質問は、、そばで聞いている私にも、矛盾に気づいたり、こんな風に思っていたのかと感じることが出来た。。

あんなにホームに行きたかったのに、元気がなくなった。
何にも、興味がわかないし、楽しいと思わない。
自分は役立たずの人間になってしまったことが悲しい。
ペースメーカーを埋め込んでから、不安が募る。
夫を亡くしてから何年くらい経つのか覚えていない。(30年経つのに、7年だと言う)
畑仕事が何よりの楽しみだったのに、野菜の名を間違える。

上の4つは想像していたが、下の2つは、「えっ?」と驚いた。

診断結果は、抑うつ症に加え、軽い認知症がはじまっているとのことだった。
認知症はまったく予想していなかった。
ときどき、時間や日にちを忘れる程度のことはあったけど、私達夫婦の忘れっぷりとさほど変わらない。
話の内容はつじつまがあっていたし、元気こそなかったが、相変わらずの聡明さをもって会話もしてきた。

高齢者の抑うつ症が認知症の前駆症状だったと後で気づくのはよくあることらしい。
「知っておきたい認知症の基本」川畑信也著(集英社新書)を読むと、
うつ病、抑うつ症、アルツハイマーなどの認知症の診断の区別は、大変難しいと書いてある。
認知がはじまるとうつ症状がでるのか、うつ症状が出始めると、認知症を起こすのか?
わからないけど、互いにリンクしあっているのではないだろうか?
高齢者のうつ症状は認知症より多いと言われている。

睡眠剤と軽い抗うつ剤の併用がはじまった。
ほどなく、相変わらず不安定な精神状態の中、熱が出た。
点滴を受けたが、熱は下がったのに寝込んでしまった。
このまま寝たきりになるだろうと思った。
介護認定を、要支援1から、介護2に上げてもらう手続きをした。
介護保険を利用して、電動ベットを借りたり、ポータブルトイレを買ったり、介護される側、介護する側、お互いの負担を少なくするよう、家での介護を組み立ててゆく。

その頃になると、私はさすがに疲れて、声が出にくくなったり、夜中に息苦しくなって目覚めたり、一人になりたいと泣いたりするようになっていた。
ケアマネージャーは、患者が二人にならないようにと、私のケアも心配してくださる。
母の笑顔に逢いたくて、一日夫に介護を替わってもらい、ホームへでかけた。
いつもお世話になっている介護師さんとしばらくお話して、介護のコツを教わった。

そして、ピンと気づいたことがあった。
この日を境に、ゆっくりだけど、大きく変化していくことになる。

 この記事は続くので、最終回にコメント欄を設けます。

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2008年3月29日 (土)

老いを見つめて①(不安)

雲南桜草
ソメイヨシノはやっと、蕾が膨らんできたが、一足先に満開の桜草です。
種で増やせるらしいので、来年はもっと増やしてみよう。
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義母は、うちへ連れて来てから少し落ち着いたが、自分の中で根本的な問題が解決していないのか、すぐに不安定さがもどってきた。
夜に睡眠剤を常用し、眠ってすべてを忘れられる時間だけを待ち望んだ。
私の両親と同じホームに入所したいという想いが再び募り、私たちも、そのことが義母を今の苦しみから救える唯一の道のように思えた。

入所への数々の手続きや、諸々の準備を整えるに従って、義母は嬉々として希望を見出し、カレンダーに赤丸をつけて入所の日を待ち望んでいた。
「ほんとうにホームに入りたい?」
「私に気をつかっているんじゃないん?」
「義姉さんが、元気になったから、また帰ってこないか?って言ってるよ。
 おばあちゃんの好きなようにしたらいいんやで」
時折たずねても、真剣に怒って、
「そんなことはない。ホームが天国に思えるから行きたいの。自分のためなの」と言う。
自立したい、自由になりたいのだと思えた。
なにより、自分のまわりの愛する人たちを束縛しない自分でいたいのだと思えた。
そんな気持ちはとてもよくわかるし、そんな義母だということも、私たち夫婦は充分理解している。

しかし、私の心の中では、日々の義母の様子を見ながら、「これでいいのか?」の想いが大きく膨らんでいく。
ホームへの入所の良し悪しは別にして、こんなに希望を見出しているはずなのに、時折見せる暗い表情と、睡眠時間がますます少なくなってゆくことは、より私を不安にした。
食欲だけはまあまああるが、どう見ても抑鬱症状は顕著だった。

決定的にダメだと感じる状況に陥ったのはお正月だった。
長男が小さな孫達を連れて家族4人で帰省した。
義母にとっては久しぶりの孫やひ孫との対面、ましてや下の赤ちゃんには初めて会えたこともあって、涙を浮かべとても喜び、うれしいお正月を迎え、賑やかな楽しい時間のはずだった。
次の朝早く(6時ごろ)、お風呂に今入りたいと言う。
もともとお風呂嫌いの上、寒いのと、体が思うように動けないこともあって、普段はお風呂には入りたがらないので、驚いた。
お風呂の介助をしてホッとしていたら、「○○さん、なんだか不安で怖いから抱いてちょうだい」と辛そうに胸を押えて言う。
夫に対しても同じように言う。
しばらく、ぴったりと抱きしめると落ち着いたが、今度は「赤ちゃんの声が気に障るので、帰るように言って」と言う。

近くの精神科外来の正月休みが終わるのを待って、診察を依頼した。
うちに来る以前も、何度か精神科には受診していたらしいが、食欲があったせいで、うつ病とは診断されず、そんなに眠れないならと、睡眠剤だけを処方してもらっていたらしい。
けれど精神科外来では、突然の診察は断られた。
まず、精神科外来の初診は予約がいること、それも1ヶ月待ちは普通であること、何より大切なことは、高齢者の場合、老人精神科外来を受診したほうがよいと、アドバイスを受けた。

真夜中には完全に覚醒し、昼間は身のやり場に困り、不安を訴える。
本人も、その頃になると「私には資格がない」などと言いはじめて、とうとう、あと2日に迫っていたホームへの入所予約を断わった。

はちきれんばかりの風船が、スーッとしぼんでしまうように、意欲も希望も気力とともに消えうせ、うつろな瞳で天井を見つめて横たわる。
体の力も萎えて、トイレに立つのがやっとになった。
TV、電話を嫌がる。ましてや私のピアノの音は不快そのもの。
咲き誇る窓辺の花も、みかんをついばみに来る小鳥達も、きらきら輝くダイヤモンドダストもただ無感動に見るだけ。
誰にも逢いたくないし、何に対しても興味を示さない。

かかりつけの医師に、老人精神科外来のある病院への紹介状を書いてもらい、やっと初診予約が取れたのは、それから2週間後だった。

 この記事は続きがあるので、コメント欄は、最終回に設けます。

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2007年12月 6日 (木)

老いた母達

一週間前のことだった。
義姉が、義母を抱えて転んだと電話があった。
義姉は腰を強く打って起きられないらしい。
大急ぎで、夫と駆けつけた。
近所の方に助けていただき、救急車で病院へ行き、私たちが着いたときは、すでに帰宅して伏せていた。

義姉は70歳。老々介護の限界が見えた。
義姉を、もう一人の義姉にまかせ、義母をうちに連れて帰る事にした。

ここ数ヶ月来、義母は気が滅入るらしく、何度も病院に行きたがるが、何度診察を受けてもなんともないと言われ困っていると義姉の愚痴を聞いていた。
「病院に入院させて欲しい、○○さんのところへ行きたい、連れて行って」と、私の両親のホームへ同居したいと言っていたらしい。

義母は、まったく認知症とは縁がなく、普段は対等に話も出来る人だが、、心細げな物言いと、助けて欲しそうなまなざしは、いままでと違った。

考えてみるに、ペースメーカーを入れる手術をしてから、急に生きる気力が失せたように思う。
もっと元気に生きるための処置がかえって、災いとなったのか?

義母と、私の母は、私たち夫婦が結婚して以来、仲が良かった。
お互い年をとって、家をはなれ、それぞれの場所に落ち着いたように見えたが、事情は変わっていく。
一昨日、義母のたっての希望で、私の両親のホームへ連れて行った。

数年ぶりに会った齢(よわい)90の母二人は、手を取り合い、抱き合って泣いた。
ここ数年来、私の母が泣くのを見た事がなかったので、少し驚くと同時に、私も老いた二人がいじらしく、涙がこぼれた。

「○○さんと一緒に暮らしたい。ホームに入れるようにしてほしい。あそこは天国やった」
義母は、ホームを訪問して、なおさら入所への想いが募ったようだ。
以前から夫は、いろんな選択枝として、ホームに入ることもどうかと義姉に問いかけていたが、「そんなこと、とんでもない」と、即座に言われたと聞いている。

私は義母の気持ちが充分理解できる。
子供達に迷惑をかけたくない想いが叶えられ、生活や病のときの不安から解消され、そのうえに自分の大好きな同年齢の友人と、ゆっくり、ゆっくり手をつないで、お互い助け合って歩けたら、若い人にすべてを委ね、ただベットに横になっているだけの生活より楽しいと思えるのではないだろうか?
「あのときは、ああでしたな~」「そうそう、そうでしたな~」と、昔の事だけはしっかり覚えている私の母も、とぼけた相槌をうちながら、二人で廊下を歩いている姿を想像して、楽しい気持ちになった。

私の母が、こんな状態になった今も、”自分が父の面倒を見ねばならない”と思うことが、生きる糧になっているとすれば、義母は、このちょっととぼけた友人である私の母を、”自分が面倒見てあげねばならない”と思う気持ちが、生きる糧になるのではないだろうか?

夫は、「僕が望みを叶えてやるから、安心して」と義母をなぐさめ、うちに来てから、少し落ちつき、睡眠も食欲も普通になって、病院で診てもらいたいと言わなくなった。

その晩、ベットに入った義母の私を呼ぶ声がした。
「○○さん、なんだか歌いたいから、聞いてちょうだい」と歌を歌いだした。
「知床旅情」「琵琶湖周航のうた」「幸せなら手をたたこう」などなど。
「久しぶりに歌いたい気持ちになった。なんだか子供みたいや」
と唱歌を歌うのが大好きな義母は綺麗な声で何曲も歌い、眠りについた。
よほどうれしくかったのだろう。

さて、どう事は進むのか?

いつか訪れると思っていた事態が急にやってきて、忙しい日々です。
日々の生活も、すっかり変わったので、ブログに費やす時間を、まだ上手に見つけられません。
皆さんのブログを尋ねることもしないままで、申しわけありません。


こんななか、花壇だけは春用に植え付け、鉢植えも越冬準備ができました。

北面の花壇は
パンジー3色(白、紫濃淡)、つれづれさんにもらった高性忘れな草、シラー球根)

東花壇道路側は
ネモフィラ、紫ハナナ、チューリップ球根(この春たくさん増えた白とボルドー色)
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同じ場所。今年の春は、こんなかんじでした。
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東花壇、壁側は

スイトピー(紫濃淡2色)、アネモネ(白)、パンジー(薄黄)、ストック混合。

どこも、バラの枝ばかり写っているので、代表で一枚(東花壇道路側)だけ載せました。
バラを剪定した枝を敷き詰めるのは、苗を掘り起こしてしまう猫よけです。
(今年も猫ちゃん達、苗が大きくなるまではごめんなさい)

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