ありがとうございました
はじめて記事を載せたのは2006年7月。
まだブログ人口は少なくて、マニュアル片手に四苦八苦しながら記事を載せていました。
全国の大勢の方と「空色ガーデン」でお会いでき、とても楽しい日々が流れtました。
以前のように多くの花を育てたり、里山の様子を載せることは少なくなりましたが、
細々とでも書いていこうと思います。
一日でも長く、自分の力で生活していけるよう頑張ります。
皆さんも、お元気でいてくださいね。
続きはこちらで
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はじめて記事を載せたのは2006年7月。
まだブログ人口は少なくて、マニュアル片手に四苦八苦しながら記事を載せていました。
全国の大勢の方と「空色ガーデン」でお会いでき、とても楽しい日々が流れtました。
以前のように多くの花を育てたり、里山の様子を載せることは少なくなりましたが、
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山小屋で暮らしているミャーミャーにエサをやるのは、朝早い夫の仕事ですが、雪が降ったり、まだ明けきらない山に行くのはちょっとサボりたいときもあるようで、自動でエサが出てくる器械を置いてみました。
日に2回、カラカラと音を立ててフードが出てくるのですが、毎日のこととなると、だんだん時間を感知する能力が芽生えてきたようで、最近ではエサの出る時間が近づくとそばでじっと待っています。
時折器械を前足で叩くような仕草をして、待ち遠しいのでしょうね。
先日来の寒さで、うまく作動しない日があったらしく、ちょっとひもじい想いをさせてしまった日もありましたが、どうもキックをしていたらしく、倒れていました。
隠しカメラでミャーミャーの生活を覗いてみたいと思いますが・・・・
二人で山小屋に行く日曜日は、うれしそうにミャーミャーと鳴きながら付いて回り、お膝でお昼寝です。
一度、連れて帰ってみようと車に乗せましたが、大暴れで大変でした。
やっぱりここで暮らすかな?
重病にみまわれると、「なぜ私が?」と思い、昨日まで健康だった自分を思い浮かべては、なかなか納得できない。
誰にでも突然襲ってくる病魔は、人を選ばない。
「私、何か悪いことしたのかな? なんかバチでもあたったのかな?
病は人を選ばんのやな~」と言ったとき、ホスピスに勤務している娘が
「つくづくそう思うよ お母さん」と言った。
日々重症の患者さんを目の当たりにしている娘には、重い実感であろう。
iあのはつらつと健康そのものの池江選手も例外ではなかった。
18歳の若さで重病を宣告されたショックと戸惑いは如何ばかりかと想像する。
頑張れというのはたやすいが、頑張るのは本人にしかできないし、その辛さも本人にしかわからない。
日本中の期待を背負ったアスリートは、気丈なコメントを出したうえ、周囲にも気配りを見せて、病と立ち向かう勇気を示した。
こんなに若いのにすごいなと思いながら、無理しないで、治療に専念できる環境をと願う。
若い命が病に脅かされるほど理不尽なことはない。
彼女より50年も長生きしている私の命の残りを全部分けてあげられたらいいけど、
こんな不健康で、老いた命はかえって迷惑だな~
やっと蕾が頭を持ち上げてきたクリスマスローズ
看護師をしている娘に勧められて、介護認定を申請することになった。
まだ人の手を借りなければできないことは何もない。
まだまだと思っているが、申請してもすぐには利用できないし、急に困ることが起きないとも限らないから、いつでもお世話になれるように準備しておいたほうがいいと言われ、そんなもんかと担当医にも話した。
とてもやさしい担当医で、難病申請の時も、この度の申請も快諾して、協力してくださった。
調査員の方が面接に来られて、父母や義母の時と同じような質問を受けた。
父母たちが介護認定を申請したのは、85歳を過ぎていたと記憶している。
私は、まだ70歳になっていない。
急に老け込んでしまったような気がしてちょっと淋しい。。
調査員の方は、認定は難しいかも知れないけど、リハビリを受けたりできるよう努力してみましょうとのことだった。
夫婦で歌人でもある永田和宏、河野裕子夫妻の、婦人が闘病の頃について書かれている本がある。
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癌の告知、そして手術によって、いかに彼女がショックを受け、不安な状態にいるのかを知っていた私は、彼女と同じ目線で悲しんではいけないという意識が強くあった。 中略
私の動揺は、彼女をいっそう不安に陥れるにちがいない。
「君と同じレベルで嘆くことだけはすまいと来たがそを悲しむか」
「君よりも我に不安の深きこと言うべくもなく二年を越えぬ」 永田和宏
病気に負けてなるものかと思い、意地でも、彼女が癌になる前の普通の日常生活を続けようとしていた。必要以上に彼女を突き放していたのかもしれない。
「今ならばまっすぐに言う夫ならば庇ってほしかった医学書閉じて」
「文献に癌細胞を読み続け私の癌には触れざり君は」 河野裕子
これを読んだときは辛かった。
彼女の求めていたのは、医学的な知識でも、これからの見通しでも励ましでもなかった。彼女が欲しかったのは、ただ一つ、彼女と一緒に悲しんでくれる存在だったのである。「自分だけがなぜこんな目に」という悔しさに寄り添い、残された時間の儚さを悲しみ、黙ってだきしめてくれる存在を求めていたのであろう。
永田和宏氏著「知の体力」より
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私の病は死が迫っているわけではないが、追い詰められる不安や悲しみは、似ている。
婦人の心情が痛いほどわかる。
男性はいつもそうなんだ。強く見せて強くなる。冷静を装うことで相手を気遣っている。
女性は二人手を取りあい、辛いね、悲しいねと一緒に泣いてほしい。
「こんなに辛いのにどうしてそんなに冷静でいられる?」と責めそうだ。
せめて最期は自分を偽りたくないけれど、男性も偽っているわけではないこともよくわかっている。
私の病を知ってから、旧友たちが励ましてくれます。
私にとって役立つと思うことをアドバイスしてくれたり、参考になることを教えてくれます。
中には、悪くなったら私が看てあげるから引っ越しておいでと、とんでもないことを言う友人もいて泣き笑いです。
先日、DVDを送っていただきました。
それは10年前にパーキンソン病と診断された方が、リハビリに励み、念願だった広島から愛媛までのしまなみ街道70キロを3日間かけて、息子さんと一緒に自転車で走破するというものでした。
当時75歳の挑戦でした。
何度も転ぶ姿や、危なっかしい姿勢でペダルを踏む姿、病状が悪化して辛そうな姿は涙なくしては見ていられませんでした。
完走の後、親子がお互いをたたえあい、
「病気のおかげで、行動に移すことができた」と言われた息子さんの言葉は、私たちにとって大きな勇気をもらえる言葉です。
故人となられた今も、颯爽と街道を走る姿、ゴールの笑顔、親子の涙は、多くの病気と闘う人に、病気と共に暮らすお手本を示してくださっているようです.
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