2008年4月30日 (水)
2008年4月29日 (火)
咲いた、咲かないクラブアップル
小さな苗木を植えて、3年目のクラブアップル。
2m位に伸びて今年も花が、咲いた。いや???
赤い実のなる濃いピンクの花は、去年よりたくさん咲いた。
うれしかった。
黄の実のなる白い花は、まったく咲かなかった。
悲しかった。
なんだか、木の形がちがうよな~。
ターシャさんちの庭のように大きな木にたわわに実が実るのはいつのことやら。
のんびり、ゆっくり、待ちのガーデニングは続きます。
赤い実のなる濃いピンクの花(今年) 黄の実のなる白い花(去年)
青い花々(119) ミヤマホタルカズラ
この青は、まさにオックスフォードブルー
つる性の日本の山野草のホタルカズラとは別のもので、これは南ヨーロッパ原産です。
でも、なんで外来種のほうに、ミヤマがつくんでしょうね。
2008年4月28日 (月)
ヤマオダマキとミヤマオダマキ
なんとも淡い淡い薄紫の野生のヤマオダマキが好きです。
里山のほとんどハーブの花壇では、今はまだ、ローズマリー、アジュガ、野生のすみれ、そしてこのヤマオダマキしか咲いていませんが、カモミールも、ラベンダーも多くのセージも新芽が上がってきました。
ヤマオダマキは、里山に来るようになった頃(3年前)には、あちこちたくさん咲いていましたが、ササユリ、リンドウ、同様だんだん少なくなっています。
そういえば、ワラビもゼンマイもタラの芽も、以前ほど見なくなりました。
この連休も多くの人が山菜取りにやってきます。
根こそぎ採らないでね~。
青い花々(118)
ミヤマオダマキ
野生に咲いているのを見てみたい花です。
先日山野草の出店で買いました。
裏庭で、大事に育ててます。
チューリップの球根を増やそう
今朝の北花壇
シラー、忘れな草、タマクルマバソウに花期を合わせるため、、遅めに蒔いたパンジーナチュレエッセンスアクエリアスがやっと盛んに咲き始め、ようやく花盛りになってきました。
これから、しばらく、このコーナーは空色に揺れます。
東花壇の入れ替え
これ以上増えても困るのに、ついつい球根を増やすくせがついています。
チューリップは花びらが散ったら、子房を手で折って、茎と葉を残して置きます。
自然に枯れる夏まで、茎と葉から養分をもらい、球根が育ちます。 ところどころ出ていた、葉が一枚だけで咲かなかったのチューリップを抜いてみましょう。
未熟な去年の球根(葉の根元)から葉を出し、新しい球根(下の白い分)が育っている様子がわかります。
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、
ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」
ひと花咲かせて、子を残して死ぬってわけですか。
(この場合は、花さえ咲いていませんが)
普通に花の咲いた球根は、夏に掘り起こすと、一本に2~3個の球根が育っています。
もともと白と赤紫たった10個ずつが、毎年倍々ゲームで増えたので、代わり映えのしないコーディネートで、たまには他の色や新種もと思うのですが、止められないんだな~これが。
白はもう散って、赤紫だけになったので、花数の少なくなったムラサキハナナも抜きました。 交替に、そろそろ花芽の見えてきたペインテッドセージ(秋蒔き)の苗を植えつけました。
きのう種を蒔いたばかりの夏のセージと交替するまで、首のちょん切れたチューリップを覆い隠すほど、豊かに育ってね~。
2008年4月25日 (金)
雨の石山寺詣で
きのうは、久しぶりにKさんと出かけた。
約束するといつも雨で延び延びになっていたが、雨天決行と「源氏物語千年紀」の催しを開催中の石山寺へ詣でた。
近くにあるけど、行きたいときはいつも観光客が多いし、いつでもいけるところはなかなかわざわざは行かない。
しとしと雨の石山寺境内は、苔むし、若葉萌え、すっぽり緑に包まれて美しかった。
雨でよかった~。
その名のとおり、石山は硅灰石の山。
巨大な石を貫き巨木が育ち、多宝塔(国宝)が建ちます
紫式部は石山寺に篭り、観音菩薩に物語創作の祈願をしました。
1004年8月15日眼下の瀬田川に映る名月の風情を眺め筆をおこし、『源氏物語』の
「今宵は十五夜なりけりと思い出でて、殿上の御遊び恋ひしく‥‥」(「明石」「須磨」の巻)を書き始めたと言われています。
式部関連の多くの展示物も魅力ですが、花の寺としても知られ、いつ来ても四季折々の花が美しく、”源氏”の世界を想います。
それにしても、この広い境内、急な坂道の連続。
展示された美しい着物を見ながら、「雨の日なんかどうして歩いたんだろうな~」と妙に現実的なことを想像しました。
雨に濡れる、散りはじめたしだれ桜
真紅の石楠花
光源氏の実在モデルと言われる嵯峨天皇の第12皇子、源融(みなもとのとおる)は、以前”杉の皮をはぐ”で紹介した神社に祭られていることを、最近知りました。
ばちあたりなみどりは、よくこの神社の杉木立の中を、猿の姿を追って走り回っています。
うちの里山のあたりは融公の荘園で、この里を閑居としたそうです。
この神社(その名も融神社)の宮司さんは、里山のうちの畑のとなりの棚田の持ち主で、よく、このあたりの歴史の事を話してくださいます。
昔の里山の人の暮らしの話を聞くのは大好きです。
源融は河原左大臣のことで、百人一首にこんな歌→を残していますよ。
(融神社の前の案内の一部です)
融さんって、どんな見目麗しさだったんやろ?
タイムスリップして、一度お逢いしたかったわ~
これは、うちの庭に咲いてる”紫式部”(宿根スミレ)
2008年4月23日 (水)
2008年4月21日 (月)
2008年4月16日 (水)
2008年4月15日 (火)
スタバに物申した
休日は、よくスタバで夫と朝食をとる。
最近は、ホイップクリームをのせた飲み物がお気に入りで、オーダー時に”マグカップでおねがいします” と注文をつける。
暖かいカップを両手に包み込み、ほの甘いホイップを上唇に感じながらコーヒーをすする楽しさは、休日のはじまりにふさわしい。
ところがこの日は、マグカップでなく、テイクアウト用の紙カップでトレーに載ってきた。
もちろん、キャップもちゃんとかぶせてある。
「あれ?マブカップでって言ったんだけど」
「すみません。お取替えしましょうか?」
「まあ、いいです」
「ドライブスルーは、皆これなので……」
「店内だからカップにして欲しかったんだけど……」
「すみません。お取替えします」
「いえ、いいです。いいです。」
ほどなく、さっきの店員が、ドリンクの無料券を2枚持ってきて、
「失礼いたしました。ぜひまたお越しください」 と詫びた。
「イエイエ、そんなつもりでは‥‥」 と言いながらも、
手は券を受け取っていた(エへへ)
でも、朝からちょっと嫌な気持ちになった。
帰るとき、店長らしい若い男性が来て、丁寧にもう一度頭を下げた。
たいしたことじゃないのに、こちらの気持ちを充分理解している様子と弁解の仕方に、ちょっと感心した。
さすが店長。すごいカスタマサービスぶり。
お店では、オーダー時に、「カップで入れましょうか?」と尋ねて欲しいな。
マックの100円コーヒーならがまんするけど、400円もするんだものね~。
紙コップでは、香りも落ちるし、口につける感触もちょっとね~。
なにより、キャップをするので、ホイップのクルクルが見えなくて楽しさが半減するし、クリームはつぶれてキャップについてしまい、思わずキャップの裏を舐めたくなっちゃう。
でも、店内でまわりを見渡すと、ほとんどの人が紙カップで飲んでいた。
みんな、テイクアウトのファーストフードに侵されてるの?
こんなことにこだわる、熟年夫婦はダサいってことかな?
里山の棚田にも、桜が咲きました。
この風景を見ていたら、朝のコーヒーなんてどうでもいいことでした。
2008年4月14日 (月)
安土城跡とシャーレー水が浜
琵琶湖湖周は春爛漫。
どこを走ってもカメラを向けたくなります。
きのうは、夫とホームへ行った帰り道に安土へ。
安土城址の麓の安土城博物館。
桜も満開。菜の花も満開。
「本能寺の変」の後に焼かれてしまった幻の名城安土城。
45m6階建の最上部、5,6階の天守閣部分が、狩野永徳の障壁画とともに原寸大で復元されています。
「こんなド派手な天守閣は見たことない」ってことで載せてみました。
孔子の教え、仏教の世界観、そしてキリスト教も受け入た信長の姿勢と思想がうかがえる天守閣です。
右は、もっとも実物に近いと言われる宣教師の描いた信長の肖像画。
高橋幸治に似ているね~。
注) 高橋幸治は、昔NHKで信長役をやった時、「本能寺の変」で”殺さないで”と投書が きたほど、当時、信長がはまり役の俳優さんです。オイオイ、歴史は変えられんよ。
地球は丸いとすぐに信じる柔軟性を備え、海の向こうに目を向けていた信長。
城跡には、家康、秀吉、利家の屋敷跡がとなり組で並んでいて、後の歴史を知る私達には、感慨深いものです。
そして、桜のころになると、行かずにいられないここ近江八幡の「シャーレー水が浜」
私のブログでは何度も出てきます。
例年と変わりない水ぬるむ春の景色です。
上の写真を撮った場所を、喫茶店の中から撮りました。
2008年4月10日 (木)
ちょっぴり空色に
ここ琵琶湖の西側、湖西地方は、1000m級の比良山系がそばにあることもあって、関西とは言ってもかなり寒い。
とりわけ、今年はよく雪が降り積もり、春に咲く花達は、去年より少し成長が遅かった。
おかげで、水仙、さくら、チューリップ、パンジー、ストック、みないっせいに咲きそろう。
例年のように、ムラサキハナナとチューリップが咲いて、少しだけ空色ガーデンに。
10個の球根が、年々増えたチューリップ。今年は近所の方にもお分けできました。
前のネモフィラはまだチラホラ咲きなので、裏側から撮りました。
手前は、ビオラF1ペニーマリーナ
こちらは、ビオラF1ビビフェイシーズ レモンの木の下
とってもお気に入りなビオラのハンギング、花がいっそう増えたところでもう一回。
2008年4月 9日 (水)
しいたけ菌を打つ
この休日は、ロゴハウスの壁に防腐剤を塗ったり、窓枠にペンキを塗ったり。
夫は、ドリルを持ったついでに、しいたけの原木つくり。
まず、クヌギの木にドリルで穴を空けます 穴にシイタケ菌を打ち込みます
?年前に打った原木、今たくさん出てきています たくさん採れた日は干ししいたけに
菌を打って、翌々年から収穫できるそうです。タンポポさんのコメントを読んで、あわてて夫に尋ねました。
5年くらい前から毎年4~5本追加しているから、毎年収穫できているそうです。
摘むのが楽しみなだけの、のんきな女房でした。反省。感謝。
↓の記事の田を、きのう耕していました。
トラクターが掘り起こす側で、たくさんのトビが餌を求めて飛び交います。
ミミズや、カエル、ヘビ、ときにはモグラを狙っているのです。
せっかく土の中で気持ちよく寝ていたはずのに。
きびしいな、自然って。
2008年4月 6日 (日)
2008年4月 2日 (水)
老いを見つめて⑤(ありがとう)
ビオラのハンギング
やっと花がたくさん咲き始めました。
今年は、寒くて遅い遅い。
義母はついに、うつ症状がほとんど見えなくなり、手すりをもってゆっくり歩いたり、会話も普通に戻ってきた。
抗うつ剤は止めるタイミングが難しいのでまだ続けている。
時折???と思う軽い認知症状はあったが、、私の母よりはまだ軽い。
時々、胸に両手を当てて、「なんだかしんどい。不安でしかたない」と言ったが、ある日それは空腹の訴えだと気づいた。少し食べ物を口にすると、ケロッと治まる。
相変わらず、外出は嫌がり、あれほど好きだった大相撲も見ない静かな環境を望んだが、一人で留守番することもできるようになり、私も外出がしやすくなった。
そして、「ホームへ行きたいな~」が始まった。
こんどは、誰も何の不安もなかった。
両親の時からもう5年間、お世話になっているかかりつけの医院の看護婦さんには、いつも励まされ、どんな時間も電話で相談にのっていただいた。
的確な方法を提案していただくと、安心できたし、希望も見い出せた。
ケアマネージャーは、細かな手続きを快く引き受け、最後の最後まで、アドバイスをもらい、頼りにしていた。
義母のホームへの入所に最初は反対していた義姉達も、最後は理解を示した。
先日面会に行き、、義母がとても元気になっていて、笑顔を見て安心したと喜んでくれた。
夫は、いつも100%私をかばい、出来る限り私を助け、事務的な諸処の手続きに仕事の合間をぬって奔走してくれた。
そして、私に「あんたをいつまでも縛るわけにはいかん」と言ってくれた義母。
みんなありがとう。
静かなお茶の時間 おかげで、義母は最初の望みどおり、私の両親のひとつ置いてとなりの部屋に表札を掛けてもらい、「私の家や。終の棲家や」とうれしそうに暮らし始めました。
ホームには、自分と同じように痛みを抱えた人や、自分のほうが励まし、手助けしてあげられる人などいろいろで、仲間がいることの安心感は大きいようです。
第2ステージは始まったばかり。
これから、この母達にどんなことが待ち受けているのかわかりません。
子としては、穏やかに穏やかにと願うばかりです。
二人の母に「また来るね」と手を振りながら、ふと気づいた。
義母は、私の母がいなければホームへは入所しなかったでしょう。
私は、このまま義母との暮らしが続けば、不自由な暮らしに不満や疲れがたまり、どうなっていったでしょう?
いつも優しい笑顔の母が、義母と私を助けてくれた。
90歳の母は、こんな年齢になった私を、まだ守り、助けてくれたのです。
「ありがとう。おかあちゃん」
涙がぽろぽろこぼれた、帰り道でした。
短い間だったけど、老いをそばで見つめ、自分の老いや死について考える日々でした。
老いに関する本、病に関する本もたくさん読めました。
夫はよく言います。
「人間、死ねなかったら辛いだろうな。死ねるからこそ、今を一生懸命生きられる」
若いときはよくわからなかったけど、今は、心からそう思えます。
明日かもしれない死ねる日まで、元気に、穏やかに暮らせたらどんなにいいでしょう。
老いも、死もいつか誰にもやってきます。
死は生の延長上のとなりにあると、自然に受け止められる自分になりたいと思ったのでした。
文で伝えることは、私にはとても難しいことでした。
それでも、いつか、何か、ヒントになればと書かずにいられませんでした。
ちゃんと伝わらなかったらごめんなさい。
2008年4月 1日 (火)
老いをみつめて④(回復)
睡眠剤の力をまだ借りなければ眠れなかったが、睡眠時間は少しずつ増えて、夜だけはぐっすり眠れるようになった。
抗うつ剤は、1ヶ月以上経たないと効果が見えないと言われていた。
心の病はまず眠れるようになることが大切だ。眠ることで、ゆっくり脳を休める。
眠れるようになったことで、私は希望を見出していたが、別の症状が現れ始めた。
体が少し動けるようになって、自分で動き始めると、転んで筋肉を痛め、また動けなくなった。
トイレ、食事の補助はもちろん、布団を掛けて、布団をめくって、水を取って、手を握って、などいろんな理由で、私を呼ぶ。
なんの理由もないときもあり、その回数は頻繁になって、ひどいときは10分毎になった。
夫がいる時は、夫も呼ばれる。
夫はとうとう音をあげ、休日は里山へ逃げた(コラコラ!)
数回に一回は、呼ばれても無視したり、病なのにと解りつつ義母を叱ったりして、私自身落ち込んだりもした。
デイケアやショートステイに預けられたら、少し私も休めるが、うつ症状があるので、人の中に急に連れ出すのは無理だった。
それでも少しづつ、また歩けるようになったり、昼間も少し眠るようになったり、以前からおやつを一切食べなかったのに美味しいと言って食べ始めたりと、前に進んでいた。
うつ症状に隠れていた認知症が見えてきたのは、抗うつ剤を飲み始めてからやはり一ヶ月半。
そのころになると、はっきりと正常な時間と、うつろな目をした別人のような時間が表れるようになった。
二重人格のように見えた。
正常な時は以前のように穏やかでやさしく、別人の時は何を言っても無駄で、うろうろと部屋を行ったり来たり落ち着かない。
トイレに行ったあと、またすぐ行ったり、食事の2時間後くらいに「きょうはまだ食べてないな~」と言ったり、時間に関する記憶が混乱し始めた。
その反面、穏やかな時間は日ごとに増えていった。
夜寝かせて布団を掛けると、「ありがとう」と言ってくれるようになって、もういいんじゃないかと、睡眠剤を半分に減らし、とうとう止めさせることに成功。
知らぬ間に夜は勝手に眠れるようになった。
食欲が増えたり、眠れるようになったり、寒がらないようになったり、体が自分で動かせるようになったりするたびに、
私が「おばあちゃん、こんなに良くなったな~」と言うと、
いつも「そうか?」と沈んだ声で答えていた。
私は、「おばあちゃん、”そうだな~”って言わなあかんよ」
ある日、答えて義母は、
「そうだ、そうだ ♪
そうだむらの そんちょうさんが♪
ソーダのんで しんだそうだ♪」 と歌った。
二人で顔を見合わせて、久しぶり笑った。
元気な頃の明るい義母の笑顔があった。
参考
そうだ村の村長さん クリスマスローズ(フェチダス)
阪田 寛夫 そうだむらの そんちょうさんが
ソーダのんで しんだそうだと
みんながいうのはウッソーだって
そんちょうさんが のんだソーダは
クリームソーダのソーダだそうだ
おかわり十かいしたそうだ
なかでおよげばなおうまそうだ
クリームソーダのプールはどうだと
みんなとそうだんはじめたそうだ
そうだむらではおおそうどう
プールはつめたい ぶっそうだ
ふろにかぎるときまったそうだ
そうだよタンサンクリームおんせん
あったかそうだ あまそうだ
おとなもこどもも くうそうだけで
とろけるゆめみてねたそうだ
「しゃべる詩あそぶ詩きこえる詩」より
この記事は続くので、コメント欄は最終回に設けます。
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